ヨルノサンポ団の日記

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"精神的不調は指導者に必要か4 進化と余剰"(医療関係ないつぶやき30 るーにー)

さて、今日は個人的な考察を述べていきたい。結論から述べると、「進化とは余剰である」という考え方である(なお、一切専門でない範囲の話であるため誤りには目をつぶっていただきたい)。

 

0.余剰と進化 

人間の知性がどのように進化していったかは諸説あるため、ここでは言及しないが、ただ少なくとも猿と比較した際に人間の持つ大脳皮質は明らかな「余剰」である。人々は火を発見した。火は人類に様々な「余剰」をもたらす。まず、火の使用によって栄養価が増大した。また、人々の活動する時間が増えた。その後、狩猟から農耕と移転することによって、人々は作物を貯めることによる「余剰」を得た。食べ物の「余剰」を確保するため、人の集まりができた。「余剰」を守るために軍隊ができた。「余剰」を持つものと持たざるもので階級に差ができ、持たざるものを抑え込むために宗教ができた。ここでの「余剰」とは一部は富を表すかもしれないが、それ以外の物も示す。

 

「余剰」が人を進化させていったのである。(どこかの本で読んだ考え方であったが、忘れてしまった)

 

この「余剰」という概念は、ハンディキャップ理論とも関連しているのではないかと考えている。

 

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1.ハンディキャップ理論

実は、ガゼルはチーターの被捕食者であるのだが、なぜか飛び跳ねるという行動を行うことで知られている。ストッティングと呼ばれるこの行為は非常に理解に苦しむ行動である。なぜならば、己を捕食者であるチーターに晒す行動であるからだ。あるいは、孔雀の綺麗な羽を思い出してほしい。あれはメスへのアピールであることは誰しも知るところだが、あんな邪魔な大きいものは持っているだけ無駄ではないだろうか。場合によっては生存に不利になる可能性がある。では、鹿のツノはどうであろうか。オスの持つツノは勿論争うことにも使われるが、大きすぎるツノを常に頭に持ち続けるのは負担でしかないと思わないか。

これに対する一つの答えが1975年にアモツ・ザハヴィが提唱したハンディキャップ理論ではないかと考える。例えばガゼルであれば、「捕食者に対して、自分は他の個体よりも調子が良いということを示している」という考え方である。あるいは孔雀であれば、「これくらい大きな羽を持っても問題ないくらい遺伝的に優良であるとメスに発している」といものだ。ハンディキャップ理論で重要な点は、自分の遺伝的に可能な限界を超えてのハンディキャップを背負った場合、遺伝的に淘汰される、としている点である。例えば、逃げることのできないガゼルの飛び跳ねすぎるという行動は致命傷である。

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2.恋愛も余剰?

私はこれを「余剰」=「ハンディキャップ」ではないかと捉えている。そしてこの考え方は人間にも当てはまるのではないだろうか。京大生が言いそうなセリフであるが、「恋愛に時間を割くのは無駄である」と。その通りなのだ、恋愛は無駄が多い。豪勢なディナーや見栄えの良い服装など、言ってしまえば男性側にとっても女性側にとっても生きるためには少なくとも無駄である。だが、こういった無駄というハンディキャップを得るためにはそれだけの経済的余剰が必要である。そう、無駄ができる人間が強いのである。あるいは、恋愛は追う側が不利というのはよく言われる話である。当然である、追われる人間というのは、追う人間から見たらそれだけ選べる相手がいるように見えているのだ。つまり、選べる相手という余剰が多いということを表すからである(どこぞの恋愛攻略サイトとやらを調べて見たら、最初にモテるためには余裕がある男性になろうと書いてあって笑った)。

 

3.ゲスな考え

ただし、余剰をアピールする、例えば孔雀などは、子育てとかは一切しない笑 オスが子育てをする生き物というのは、基本的に余剰をアピールしない(子育てができるというのがもしかすると余剰なのかもしれないが)。その点、人間は不思議な生き物であり(これについては社会的な余剰の影響であると考えているが)、余剰をアピールする人間としない人間がいる。ここでゲスな考え方が頭をもたげてくる。「余剰のある人間の遺伝子を受け入れ、それを余剰のない人間と育てればいいのではないか」。これを世では托卵女子というらしい。この考え方は誤りであろうか?筆者の記事では「倫理的に」なんて言葉は認められない。筆者は「生物学的な余剰の観点」では非常に理にかなった考え方だと思うが、「社会学的な余剰の観点」でこれが認められないと考えている。詳細は社会的な余剰について述べる際にまとめて語ろう。

 

今回は、生物や個人といった単位での「余剰」について述べた。次は社会的な余剰などについて述べたい。