ヨルノサンポ団の日記

演劇集団のゆるい日記!twitter(@yorunosanpo0315)も!

”世界の見方を変えたくないか?”(るーにー)

さて、最近は医学論文を読む時間が少なく、元々持っている知識でブログを書いている状況が続いている。貯金を切り崩しながらなんとか生活をしているといった感覚である。

 

1.「嫌われる勇気」

今日は1冊の本を紹介したいと思う。「嫌われる勇気」(岸見一郎、古賀史健)という本だ。

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この本は、心理学や哲学といった難しそうな話に、筆者達の視点を含みつつ、対話形式で非常に分かりやすく進んでいく。

日本でも200万部、世界で400万部という間違いなく21世紀を代表する名著である。日本人の書いた本が世界でこれだけ売れることの凄さたるや。2015年には韓国で年間ベストセラー1位も獲得している。

 

2.アドラーとは?

アドラーは19世紀後半から20世紀前半にかけて活躍した、ユングフロイトに並ぶ心理学者の巨頭である。元々はフロイトの共同研究者であるが、途中で決別し、アドラー心理学を創始している。

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アドラー心理学には後述する目的論など、5つの基本的思想というものが存在するが、ここでは割愛することにする。

 

「嫌われる勇気」はそんなアドラー心理学から沢山の目から鱗になることが書かれているが、2点だけこのブログに記したいと思う。(共同体という重要な概念もあるが、ここでは割愛します)

 

3.目的論

目的論とは、「その行動は原因によって引き起こされるのではなく、目的を達成するために行われている」とする考え方である。

 

例えば、引きこもっている青年がいるとする。

我々は、なぜこの青年が引きこもったかを考える。いじめられたのだろうか、親との関係が悪いのか、何か大きな失敗をしたのか、と引きこもった原因を考える。これを原因論と呼ぶ。フロイトはこの原因論を主張し、原因にアプローチする心理学を展開する。

一方アドラーは異なる。この青年は引きこもることによって、例えば親が心配して丁重に扱ってくれる、社会にてその他大勢に紛れることがない、といった目的を果たすために引きこもっていると考える。

 

別の例えを紹介しよう。会社で上司に部下が怒鳴られているとしよう。

原因論であれば、部下が何か仕事でミスをしたという原因のために怒鳴っていると考える。

目的論であれば、上司は部下に対して力関係を見せるために怒鳴っていると考える。

 

なるほど、納得できる。仕事でミスをした部下に対する上司の対応は千差万別であるはずであり、ミスしたから怒鳴るという構図は1対1では成立しない。しかし、自分の立場を誇示するために怒鳴っているのだという主張は至極納得がいく。

 

つまり、アドラーは過去は自分の行動を正当化する目的にしかなっておらず、行動の理由にはなっていないと主張しており、トラウマの概念を真っ向から否定するのである。

 

例えば、自分は虐待を受けていたから社会に適合できないといった考えかたを否定している。外に出たくないなどの目的のために社会に適合していないだけであり、虐待は行動に関係なくあくまで正当化であるというのである。

 

人の心を守るという意味では原因論が有用な部分もあると思うが、現代には目的論という概念が乏しいため、この考えかたは知っているだけで色々と自分を見つめなおせる気がする。

 

そう、筆者がブログを更新できていないのは、めんどくさいからなのである。決して仕事が忙しいからではないのだ。

 

4.課題の分離

例えば、勉強しない子供がいたとする。親であるあなたはどうするであろうか。

ここで、勉強しなさいと介入することは課題の分離ができていないと言える。アドラーは、勉強するということは子供の課題であり、親の課題でないと主張するのだ。そして、他者の課題に踏む込むなと諭す。

 

恐らく一般的には、筆者の親もそうだったが、「あなたのためを思って言っているのよ、勉強しなさい」と主張してくる。そして、子供は反発し、人によっては渋々勉強し、人によっては勉強しないのだろう。この、あなたのためとは、親として、人生の先輩として、必要だと感じるので勉強をさせる必要があるとのことであろう。

 

 

ただ、よくよく考えると、本当にあなたのためなのだろうか。上記の目的論と照らし合わせると、親の見栄などが多分に入っている行動におもわれる。親の課題は、子供に勉強の重要性を伝える程度であろう。子供に勉強をさせることは親の課題では決してないのだ。

 

よくバラエティ番組で「どうやったら子供が勉強するようになるでしょうか」という質問がなされているのを見るたびに大きな違和感を抱いていた。昔の自分は、親自身が勉強すれば、子供も勉強するのではないだろうか?と考えていた。今の自分は、親のできることは子供が勉強する環境を整えることであり、勉強をさせることはできないと考える。

 

馬は水辺に連れて行くことはできるが、水を飲ませることはできないのだ。

 

こういうことは仕事でもよくあることである。どんなに頑張って対応しても、患者に怒鳴られるということはある。過度に凹む必要はないのだろう。自分の対応で誤っていた点は自分の課題であり反省する点であるが、それをどのように受け取りどのような反応をするか、例えば怒鳴るか、については他者の課題であるのだから。

 

5.最後に

最近SNSを見ていると、「どういう風に考えたらそんなトンチンカンな主張をするのだ?」とか、「そんなに他者を叩いてどうする?」と思うことが多い。

これらに対して色々と言いたくなることも多くなるが、こういった発言を是正することは少なくとも自分の課題ではないと思う。昔の自分なら長文で攻撃していた可能性もあるが、、、

まあ、他者を叩く人間は自己の課題が少ないとてつもなく優秀な人間なのだろうから、日本の未来は安泰である、

 

大変面白い本であるので、筆が進んでしまった。課題の分離はここから承認欲求の否定という展開を見せるが、あまりに長くなるので割愛した。

この本を読むと、自分の周りへの見方が間違いなく変わると思われる。お家時間のお供に如何であろう。