ヨルノサンポ団の日記

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藤本タツキ『ルックバック』レビュー ~なぜ『ルックバック』を「考察」したくなるのか~ (平井)

 

夏が本番に入り、日差しがきつくなってきた今日このごろ。

知人が「面白かった」とツイートしてたので、『ルックバック』を早速読んでみました。

自分自身、実はいまも『チェンソーマン』は未読でこういった記事を書くのはおこがましい気がしたのですが、『ルックバック』を読んでみて気になった点について語ればツイートではちょっと収まんないな、と思ったのでこちらで記すことに。

にしても、最新の作家の最新作をネット上で無料で(しかも公式という形で)読めるなんて、今更ですがスゴいラッキーだなあ、と思います笑。

まだ読まれていない方は、公開期間中であればすぐ読めるのでこんなウェブの僻地でこんな記事を読む前にぜひ読んでください!!!

 

 

まず、なぜこのタイトル(~なぜ『ルックバック』を「考察」したくなるのか~)にしたのかという話ですが、検索エンジンで「ルックバック」と打ち込むと、第二ワードに「考察」「わからない」「意味」みたいなワードがずらずら出てくるんです。

個人的な立場を先に申し上げておくと、実はワタシいわゆる作品の「考察」みたいなものがあまり好きではありません。作品を鑑賞する方法として考えると、いわゆる考察というやつはどうしても作品の意味みたいなもの(そもそも「意味」なんてあるか?という所から話を始めるべきだけど)を限定的に捉えてしまうし、やっぱり作品を一番理解する人はその作品を目一杯楽しんだ人だと思うんです。一方で中近世の宗教画(例えばデューラーとかブロンズィーノの作品)のように、いわゆる「謎解き」が鑑賞において大事になるケースもあると思うのですが、現代の作品においてそういう見方をすれば、大事な部分を取りこぼしてしまうことの方が多い気がするのです・・・。たとえるなら、せっかくディズニーランドに来たのに隠れミッキーばっかり探してるみたいな感じ(?)。「アトラクションとかいろいろあるよ!パレードきてるよ!ご飯もおいしいよ!!」って言いたくなる気分に駆られます。

 

この話はいったんこれくらいにして、では『ルックバック』もやっぱり「考察」するのは変だと思うんですかね?ということなのですが、この作品に関しては「考察」したくなるのは分かる気がしました。

理由は簡単で、まずは一応は答えの出る暗号みたいなものが、比較的わかりやすく作品の中に散りばめられてるからです。あちこちで言われていて今更隠すこともないと思うので言いますと、「Don't Look Back in Anger」の隠れ文字とか、タランティーノの映画のオマージュとか。いかにも、「いつか見つけてください」という形で作品に置かれている感じがします。また、作品の公開時期が「京都アニメーション放火殺人事件」のほぼちょうど二年目の頃だったこと。明らかに事件の内容に寄せた筋書きもあります。さらに言えば、藤野と京本それぞれの生きている時間が突然ずれるタイミングがあり、リアリズムを期待する読み手には少し面食らう展開であったこと。このあたりで、正攻法では中々読み解けないぞ、と思わせる部分もあったかもしれません。

最後は少し種類が違いますが、いずれにせよ、この作品にはどこか「何か本当に言いたいことを隠してるんじゃないか」という雰囲気がするのです。隠されたらされるほど知りたくなるのが人の佐賀で、自分も読み返す時はちょっと考察的な読み方をしていたように思います。

 

ここからが自分としては大事なところなのですが、正直「隠されたメッセージは何か?」という事よりも気になることがありまして、それは「なぜわざわざメッセージを暗号化したのか?」ということです。

作品にメッセージを込めてそれを暗号化するというのは、端的に言ってしまえば「わざわざ読みにくくする」ということです。フィクションなのだから本当に言いたいことがあるならはっきり言ってしまえばいいのに、それをなぜ隠すようなことをするのか、と。

ここからは自分の考察(こういう答えの出ない「考察」の方が自分は好みなんです・・・)になりますが、直接メッセージを言わなかったのは、単に直接メッセージを「言えなかった」からではないでしょうか。

「Don't Look Back in Anger」の文字や公開時期、作品の展開から察するに、この作品は事件に対する追悼の意味合いが込められていることは間違いないでしょう。それが「言えない」というのはどういうことかというと、一つは藤本タツキさんが漫画家だからではないかと。漫画家は追悼してはいけないという意味ではなく、これは作者さんの気負いのようなものだと思うのです。明示的にメッセージを入れてしまうことによって、あらゆる読者がバイアスありきで作品を読んでしまう、そんな状況を避けたかったのではないかと思います(自分も最初読んだ時は事件との関連に気付きませんでした)。あくまで普遍的な読者の自由な読み方を想定する、そのスタンスはさすが、ジャンプで人気連載を誇った作者さんだ!と自分は思いました。「お前何者だよ」とツッコまれそうですが笑。

もう一つ、「言えなかった」理由は、単純に、メッセージ自体が今の時代には少し「過激」だと判断されたのではないかと。ここはウェブの僻地なので言ってしまうと、「憎しみを込めて過去を振り返るな(Don't Look Back in Anger)」ということは、今の時代には難しいと思うのです。特に今は、コロナ下で皆ピリピリしててなかなかヘイトフルな時代です。何かと他人の失態ばかりが目について、いい部分とか救いを探そうとするのをうっかりすれば忘れそうになります。でも他人の失敗をツツいてる間に今というかけがえの無い時間はどんどん失われていくわけで、人間はそれでもやっぱり目の前のことから順番に取り組むしかないのだと思います。藤野は京本の死を受けて「なぜ自分は漫画を描いているんだろう」という問いに再帰し、またそこから再出発していくわけですが、結局出来ることはそれしか無いんですよね・・・。正の出来事も負の出来事も自分の道として進むしかない。人間は天の岩戸に何百年も引き篭もっていられるほどよく出来た生き物ではないですから。

 

そろそろ出かけるので、最後に今更ですが作品に対する感想です。

この作品を読んで最初に連想したのは、ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』でした。事件の犯人、被害者、傍観者ら様々な視点から一つの出来事を覗いた作品です。こちらと比較すると、『ルックバック』は少ない視点から事件を描いています。それは個人的には少し引っかかる点ではあったのですが、恐らく意図があってそうしたのだと思っています。

個人的に最も良かった点は、ベタですがちぎれたマンガの1コマ目が京本のドアの下にもぐりこんでいくシーンです。暗く狭い廊下と日光が差し込む明るくがらんとした部屋の対比、藤野の物語が京本の物語に一瞬でシフトする決定的な場面です。その大事な局面においてここまでの演出の出来る人が、一つの事件でも多様な見方から解釈できる可能性があることを忘れるはずがないと思うのです。恐らく何かしらの意図があって事件を眺める視点を絞ったのだろう、とそこにも作者さんの意志を感じました。

 

長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!!

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