ヨルノサンポ団の日記

演劇集団のゆるい日記!twitter(@yorunosanpo0315)も!

ジャン=リュック・ゴダール(Jean-Luc Godard)について(平井)

ヨルノサンポ団の平井です。

昨日、2022年9月13日、映画監督のジャン=リュック・ゴダールがスイスで亡くなったというニュースが届いた。91歳と大往生であるが、自殺幇助による死だったという。ゴダールがスイスに暮らしているのは知っていたが、自殺幇助がスイスで認められているというのは初めて知った。

映画好きな知り合いからは勿論、私が映画サークルに入っていたのを知ってか色んな方からゴダールが亡くなったというメッセージを受けた。

 

ゴダールが亡くなった事に関しては、「とうとう亡くなってしまったか…」という気持ちがある一方で、まさかという驚きがある。ゴダールが最後に作品を創ったのは2018年とほんの数年前であり、彼のペースから考えればそろそろまた新作が出るのかな、という頃に訃報が届いたためだ。

ゴダールは多作だ。それだけでなく前期・中期・後期で作風が大きく変わり、あらゆる映画監督でそうした時期による区分けが最も重要になる人物だろう。「前期ゴダールが好き」「後期ゴダールが好き」といった話で盛り上がれるというのは、彼が映画史において最重要人物の一人であることを示している。

 

とはいえ、ゴダールの訃報をこれほど日本のメディアが積極的に取り上げたのは正直意外だった。映画好きならいくつか作品は観たことはあるだろうが、でなければ中々観る機会の少ない監督だからだ。恐らく来年末くらいまでは、全国でレトロスペクティブのゴダール映画祭があちこちで行われるのだろう。

これをきっかけにゴダールを知る人、初めて作品を観る人も多いかもしれない。「映画史上最も重要な人物の一人」といった評判で観ると、がっかりされることもあるかもしれないので、ここからはゴダール作品をこれから初めて観る人に勧めるつもりで述べる。

 

まず「ゴダール作品は難しい」とよく言われる。確かに不自然な言葉遣いが多いし、引用も多いため理解に苦しむことも多い。その点については同意するが、とりあえず理解することは一度放棄して、映画にツッコミでも入れるつもりで肩肘張らずに楽しんで欲しいというのが正直な思いだ。

ゴダールが評価されているのは、誰がどう見てもゴダールの作品だと分かるような個性をほぼ全作品で確立しているためだ。これは断言できるが、ゴダール古今東西あらゆる映画監督のうちで最も個性的と言ってよく、恐らく異論も少ないだろう。だから難しいというより、ユニークな映画と言った方が正しいと思う。

 

ゴダールは一度カンヌ国際映画祭を文字通り「粉砕」した経歴を持つし、様々な作品でハリウッドを攻撃してきた。何らかの基準でもって映画を評価するという風習に対しては常に反対の姿勢を見せていた(最も受賞歴の多い監督の一人ではあるのだが)し、一筋縄でいかないのは当然だ。

もちろん好き嫌いのはっきり分かれる監督であるため、ゴダールを嫌う人はとことん嫌う。映画批評家淀川長治は「ゴダールほど嫌いな人はいない」と言っていたそうだが、一方でゴダールの映画文法にハマった人は、これこそが映画だと過激派ファンのようになることも多い。

誰もが皆ゴダールを褒め称える世の中というのはかえって不健全な気もするので、好き嫌いがはっきりしているくらいが丁度良いだろう。いくつかゴダールの作品を観てみて、好きなら好き、嫌いなら嫌いで、無理にゴダールの作品を好きにならなくてもいいと思う。

 

最後に、ゴダールに興味を持った人にお勧めの作品を挙げる。左翼思想の強い中期の作品群は避けて、前期と後期から選ぶ。出来れば前期の作品から観た方が良いと個人的には思うが、その点はお任せする。自分自身まだまだ未見の作品も多いため、そうした作品群を外しているのはご了承願いたい。

 

前期

勝手にしやがれ』(1959)

『女は女である』(1961)

『はなればなれに』(1964)

アルファヴィル』(1965)

『ウィークエンド』(1967)

 

後期

ゴダールのマリア』(1985)

『右側に気をつけろ』(1987)

『フォーエヴァー・モーツァルト』(1996)

ゴダールの映画史』(1998)

『アワーミュージック』(2004)

 

改めて、ジャン=リュック・ゴダール氏のご冥福をお祈りします。

ゲットワイルド(浅野)

29歳になりました。マジでもうアラサーだ。よく「俺ももうおじさんだから~」とか言ったりするけど、正直内面は全くおじさんにはなれていないと思う。幼すぎる。未だに自意識過剰だし、友達に甘えて遅刻をしたりする。おじさんはそんなことしない気がする。年齢を重ねれば大人になるものだと思っていたけど、そういうものではないようだ。自ら!不退転の覚悟で!努力しないといけない。

総じて言うと、もっとタフになりたい。いちいち周りにどう思われるかとか考え過ぎたり、近い人に対して甘え過ぎることから脱却しないといけない。Get wild and toughだ。アスファルトタイヤを切りつけながら暗闇走りぬけるんだ。

 

以下、最近の話。

演劇まわりで、ハラスメントの話を良く目にした。演劇って本当に閉鎖空間で独自の表現を追求する営みなので、良いもの=演出が良いと思うものってなりがちだし、そうなると演出の言うことが全てになっちゃう。でも、演劇って一緒にやる人さえいれば簡単に出来るものなので、演出側は「自分なんて、、」とどこかで思っていて、自分の持つ権威性に無自覚なことが多い。まあだから、自分が権力を持ってしまっていることをちゃんと引き受けることが必要なんだと思う。「不安なんだ、、」とか言ってる立場じゃねえんだよっていう。自戒として。

GWは東京に行って友達に会ってきた。とても楽しかった。みんな大変そうだったけど元気そうで良かった。中学生くらいの頃はこんなに友達が大事な人間になるとは思わなかった。自分はヤンキー気質というか、ほとんどの人たちに対してかなり関心が薄い代わりに、自分の周りの人はすごく幸せになって欲しいという気持ちが強い気がする。みんなそうか? 東京では演劇も3本観た。ひとごと。と五反田団とナカゴ―。なんだか色んな表現があるなあという馬鹿みたいな感想を持った。色んな表現をやりたい。

小説は川上未映子「夏物語」をだらだら読んでいる。長い。最近はテレビや映画をなんとなく見る気がしなくて、代わりにYouTubeばかり見ている。YouTubeを一通り見ていて、サムネを一目で見たときに伝わる自己プロデュースがすごく大事なんだなと思った。やっぱりシンプルに容姿は大事だし、ぼっち系YouTuber?のコスメティック田中さんの動画「【DIY】コムドットが動画投稿したら絶対1コメできる装置作ってみた!」とかタイトルだけで再生してしまった。演劇はYouTubeと違って手軽に見られるものじゃないし、体験としての負荷も密度も大きいからまた変わってくるけど、見てもらうための工夫として参考にできることはあるかなと思った。我々はまだ必死さが足りない気がする。

そろそろ映画でも観に行こう。なんかやってるかな。

矜羯羅がっちゃう(浅野)

お久しぶりです。およそ1年ぶりのブログです。ブログ書く度にお久しぶりと言っている気がします。週一でラジオを垂れ流しているという言い訳で、ブログを書かなくなっておよそ300日ほどが過ぎ去りました。元々大して書いてなかったですが。

 

先週、WINGCUP参加公演「イロトリドリのシロクロ」が終わりました。来て頂いた方々、応援して下さった方々、ありがとうございました。早いものでもう5回目の公演になるんですね。ラジオでうだうだ話しましたが、もっと面白いものをつくりたいですね。あと、お客さんに生で観てもらえるのが凄く良いものだなと。楽しいですねー。安いものでもないし、わざわざ劇場に行くのも大変だろうし、本当に感謝感謝。またやるので、是非劇場までお越しください。何卒。

 

以下、ただの日記。

映画「ウエスト・サイド・ストーリー」を全く物語を知らずに観に行ったら話が暗すぎてびっくりした。え?こんなに救いがないん?「こうはならないでくれ〜」と思っていた展開が続々とスクリーンに映しだされて思わぬダメージを食らった。それなのに、良いもの観たーと思わせるのはスピルバーグマジックなんか。

SnowManの新曲「ブラザービート」がめちゃくちゃ良いな!!と思ったら、作詞作曲がクボタカイだった。ジャニーズの作詞作曲とかどうやって決めてるんだろう。すごく好き。才能ある人は見つかっていくんだなあ。

久しぶりにブログを開いた(るーにー)

久しぶりにブログを開いてみた。劇団としてはなんだかんだで1年半近く活動を続けている。長いものである。

今度11月にも公演を行う予定だ。変わらず私はオンラインでの参加であるが。

 

同時にこの劇団が活動している期間とコロナの期間はほとんど合致する。そう考えると、コロナの方も長いものである。

 

ニュースは変わらずコロナばかりだがこの光景も見慣れたものである。たまたま時間があるときに"パラサイト"という映画を見たのだが、「外を歩いている人がマスクしていないな。ああ、これコロナ前の映画か」という謎の感慨に耽ってしまった。

 

ワクチンについても色々な報道がある。見ていて思うのは、「長期的なことは誰にもわからない」というのが正解ではあると思う。つまり、コロナのワクチンはこうだ、と言い切る人は基本的に眉唾だなと思う。

 

短期的なデータは最近出ていた。"mRNAワクチン完全接種者の有効率は、85歳以上では84%(95%CI:73~91)(Thompson MG,et al. NEJM 2021 sep8)"ということらしい。短期的な副作用も確か心筋炎が目立つけど、コロナにかかった方が心筋炎になりやすいから、マシという論調の報告があった気がする。

 

確かに、半年前と比較してICUの年齢層は明らかに低くなっているなとは思う。これは、高齢者のワクチン接種のおかげなのかなとも思う。

 

他の国の方がワクチン接種が進んでいて、今後の日本のモデルになるのかなと思って、他国のワクチン接種状況を見たが、あまり変わらなかった。どこの国でも状況は似たようなものなのだろう。ワクチン非接種という考え方は否定しないし、医療関係者にも一定数いる。

ただ、社会全体で見ると、それなりの人数がワクチンを打たないと効果を発揮しないため、最近のワクチン推進報道が過熱しているんだな、と思う。

 

色々な病院で、コロナは呼吸器や感染症の専門家以外も診ているところが増えている。一般内科が押さえる必須な病気になりつつあり、これもまた医学の進歩なのだろうかと思う日々だ。

雨にも負け(川村)

雨にも負け 川村

雨にも負け
風にも負け
雪や夏の暑さには当然負け
貧弱な体と心を持つが
欲はあり
急に怒り
いつも静かに笑っている
2日に1回ウーバーイーツと
炭酸飲料と多くの間食を食べ
あらゆることに
まるで自分が関わっているかのように振る舞い
よく聞かずよく知らず
すぐに忘れ
都会のマンションに居て
東に病気の子供あれば
俺ならこうするとのたまい
西に疲れた母あれば
自己責任だと非難し
南に死にそうな人あれば
形だけ悲しみ
北に喧嘩や訴訟があれば
もっとやり合えとヤジを飛ばし
1人の時は涙を流すが
特に行動はせず
休日は寝てばかりいる
そういう私を
もう誰も愛さないでください

藤本タツキ『ルックバック』レビュー ~なぜ『ルックバック』を「考察」したくなるのか~ (平井)

 

夏が本番に入り、日差しがきつくなってきた今日このごろ。

知人が「面白かった」とツイートしてたので、『ルックバック』を早速読んでみました。

自分自身、実はいまも『チェンソーマン』は未読でこういった記事を書くのはおこがましい気がしたのですが、『ルックバック』を読んでみて気になった点について語ればツイートではちょっと収まんないな、と思ったのでこちらで記すことに。

にしても、最新の作家の最新作をネット上で無料で(しかも公式という形で)読めるなんて、今更ですがスゴいラッキーだなあ、と思います笑。

まだ読まれていない方は、公開期間中であればすぐ読めるのでこんなウェブの僻地でこんな記事を読む前にぜひ読んでください!!!

 

 

まず、なぜこのタイトル(~なぜ『ルックバック』を「考察」したくなるのか~)にしたのかという話ですが、検索エンジンで「ルックバック」と打ち込むと、第二ワードに「考察」「わからない」「意味」みたいなワードがずらずら出てくるんです。

個人的な立場を先に申し上げておくと、実はワタシいわゆる作品の「考察」みたいなものがあまり好きではありません。作品を鑑賞する方法として考えると、いわゆる考察というやつはどうしても作品の意味みたいなもの(そもそも「意味」なんてあるか?という所から話を始めるべきだけど)を限定的に捉えてしまうし、やっぱり作品を一番理解する人はその作品を目一杯楽しんだ人だと思うんです。一方で中近世の宗教画(例えばデューラーとかブロンズィーノの作品)のように、いわゆる「謎解き」が鑑賞において大事になるケースもあると思うのですが、現代の作品においてそういう見方をすれば、大事な部分を取りこぼしてしまうことの方が多い気がするのです・・・。たとえるなら、せっかくディズニーランドに来たのに隠れミッキーばっかり探してるみたいな感じ(?)。「アトラクションとかいろいろあるよ!パレードきてるよ!ご飯もおいしいよ!!」って言いたくなる気分に駆られます。

 

この話はいったんこれくらいにして、では『ルックバック』もやっぱり「考察」するのは変だと思うんですかね?ということなのですが、この作品に関しては「考察」したくなるのは分かる気がしました。

理由は簡単で、まずは一応は答えの出る暗号みたいなものが、比較的わかりやすく作品の中に散りばめられてるからです。あちこちで言われていて今更隠すこともないと思うので言いますと、「Don't Look Back in Anger」の隠れ文字とか、タランティーノの映画のオマージュとか。いかにも、「いつか見つけてください」という形で作品に置かれている感じがします。また、作品の公開時期が「京都アニメーション放火殺人事件」のほぼちょうど二年目の頃だったこと。明らかに事件の内容に寄せた筋書きもあります。さらに言えば、藤野と京本それぞれの生きている時間が突然ずれるタイミングがあり、リアリズムを期待する読み手には少し面食らう展開であったこと。このあたりで、正攻法では中々読み解けないぞ、と思わせる部分もあったかもしれません。

最後は少し種類が違いますが、いずれにせよ、この作品にはどこか「何か本当に言いたいことを隠してるんじゃないか」という雰囲気がするのです。隠されたらされるほど知りたくなるのが人の佐賀で、自分も読み返す時はちょっと考察的な読み方をしていたように思います。

 

ここからが自分としては大事なところなのですが、正直「隠されたメッセージは何か?」という事よりも気になることがありまして、それは「なぜわざわざメッセージを暗号化したのか?」ということです。

作品にメッセージを込めてそれを暗号化するというのは、端的に言ってしまえば「わざわざ読みにくくする」ということです。フィクションなのだから本当に言いたいことがあるならはっきり言ってしまえばいいのに、それをなぜ隠すようなことをするのか、と。

ここからは自分の考察(こういう答えの出ない「考察」の方が自分は好みなんです・・・)になりますが、直接メッセージを言わなかったのは、単に直接メッセージを「言えなかった」からではないでしょうか。

「Don't Look Back in Anger」の文字や公開時期、作品の展開から察するに、この作品は事件に対する追悼の意味合いが込められていることは間違いないでしょう。それが「言えない」というのはどういうことかというと、一つは藤本タツキさんが漫画家だからではないかと。漫画家は追悼してはいけないという意味ではなく、これは作者さんの気負いのようなものだと思うのです。明示的にメッセージを入れてしまうことによって、あらゆる読者がバイアスありきで作品を読んでしまう、そんな状況を避けたかったのではないかと思います(自分も最初読んだ時は事件との関連に気付きませんでした)。あくまで普遍的な読者の自由な読み方を想定する、そのスタンスはさすが、ジャンプで人気連載を誇った作者さんだ!と自分は思いました。「お前何者だよ」とツッコまれそうですが笑。

もう一つ、「言えなかった」理由は、単純に、メッセージ自体が今の時代には少し「過激」だと判断されたのではないかと。ここはウェブの僻地なので言ってしまうと、「憎しみを込めて過去を振り返るな(Don't Look Back in Anger)」ということは、今の時代には難しいと思うのです。特に今は、コロナ下で皆ピリピリしててなかなかヘイトフルな時代です。何かと他人の失態ばかりが目について、いい部分とか救いを探そうとするのをうっかりすれば忘れそうになります。でも他人の失敗をツツいてる間に今というかけがえの無い時間はどんどん失われていくわけで、人間はそれでもやっぱり目の前のことから順番に取り組むしかないのだと思います。藤野は京本の死を受けて「なぜ自分は漫画を描いているんだろう」という問いに再帰し、またそこから再出発していくわけですが、結局出来ることはそれしか無いんですよね・・・。正の出来事も負の出来事も自分の道として進むしかない。人間は天の岩戸に何百年も引き篭もっていられるほどよく出来た生き物ではないですから。

 

そろそろ出かけるので、最後に今更ですが作品に対する感想です。

この作品を読んで最初に連想したのは、ガス・ヴァン・サントの映画『エレファント』でした。事件の犯人、被害者、傍観者ら様々な視点から一つの出来事を覗いた作品です。こちらと比較すると、『ルックバック』は少ない視点から事件を描いています。それは個人的には少し引っかかる点ではあったのですが、恐らく意図があってそうしたのだと思っています。

個人的に最も良かった点は、ベタですがちぎれたマンガの1コマ目が京本のドアの下にもぐりこんでいくシーンです。暗く狭い廊下と日光が差し込む明るくがらんとした部屋の対比、藤野の物語が京本の物語に一瞬でシフトする決定的な場面です。その大事な局面においてここまでの演出の出来る人が、一つの事件でも多様な見方から解釈できる可能性があることを忘れるはずがないと思うのです。恐らく何かしらの意図があって事件を眺める視点を絞ったのだろう、とそこにも作者さんの意志を感じました。

 

長くなってしまいましたが、ここまで読んでくださった方、ありがとうございました!!

ツイッターもやってるのでそちらもよろしくお願いします!

村田沙耶香『地球星人』 ネタバレなし・ネタバレありレビュー(平井)

ヨルノサンポ団の団員、平井です。

 先日、当団でも役者として活躍してくれた川村が読んで面白かったとのことで、村田沙耶香さんの『地球星人』を読みました。

 

地球星人(新潮文庫)

 

 村田沙耶香さんの本は『コンビニ人間』を少し読んだくらいで、まだまだ作家さん自身の個性を理解するには程遠いです…。が、『地球星人』と合わせて二冊、読ませてもらった印象としては、「世の中に馴染めない人はどう生きているのか」ということをストイックに追い続けている作家さんなのではないかと思います。

 他の方のレビューを読ませていただくと、「女性の生き辛さ」をテーマにしているという評者の方もいらっしゃいます。ただ個人的には、性差だけでなく世の中の常識そのものに対してどこか批判的な、「なぜ世の中のルールはそうなっているの?」という根本的な疑問が作家さん自身にあり、そういった疑問を持つ人が世の中で生きていくとどんな目にあうかを淡々と描いている、という印象です。

 

 ここからようやく『地球星人』についてのお話になりますが、一言でいえば、読んでてワクワクしました。『コンビニ人間』も若干そうですが、物語の前半で主人公の生い立ちが詳細に語られているので、「主人公の隠れた過去を追い求める」みたいな探偵小説的な展開にはならず、基本的に「現在」に沿って話が進んでいくので、常に新しい情報が出てきて次の展開があまり読めない。ハッピーエンドに導くも悲劇に導くも、作者の気まぐれでどうにでもなる状態が長いこと続くので、それこそ探偵小説は前のページを手繰れば犯人がわかることも多いでしょうが、この小説の場合次のページに進む以外選択肢はなく、読む手が止まらず猛スピードで読んでしまいました。

 主人公の奈月は、母親ぞんざいな扱いを受けたことか塾の先生から受けた強烈な性体験か、あるいは周りの環境全てが原因なのか、あるいは真実なのかもしれないけれど、自分のことをポハピピンポボピア星から来た魔法少女だと考えています。星の名前は「ちちんぷいぷい」「アブラカタブラ」「テクマクマヤコン」みたいないかにも呪文めいた、胡散臭さを感じさせるもので、やっぱり主人公の妄想なのかな・・・という気もしますが、主人公の奇行は個人的には奇行と言えるほど支離滅裂でもないし、主人公の経験を考えれば、「共感できる」とは言わないまでも主人公に寄り添って読み進めていくことはできます(少なくとも前半部分は。ここ大事!!)。奈月は自分でも知らない間に自分が魔法少女だと「気付いて」しまったのかもしれない。そのことが読んでて悲しかったですね…。ここから逃げ出したい、と考える奈月の気持ちも少しは分かる気もします。

 グロテスクな描写などは悲しいことに結構慣れてしまっているので、そのあたりで読み辛さを感じることが無かったのが幸いですね~。むしろ、そういった描写のキツさを除けば主人公を取り巻く登場人物が奈月を追い込むような残酷な形に配置されていて、ここから逃げ出すのか、あるいは全てを受け入れて「工場」の一員となるか、その二者択一を迫らせるあたり、様式的で読みやすささえ感じました。

 ただ、やっぱりこれでは飽き足らなかったのか、8割くらい読んだ後で大きなどんでん返しが待っています。この小説を読んで良かったと思ったのは、クライマックスの展開が大きいですね。それについては、以下で述べたいと思います。「こういうの他にも読んだことあるなあ」と思って途中で投げ出した方も、ぜひ最後まで読んでみてください!

(以下、小説のクライマックスについて触れています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 主人公の奈月と、その夫の智臣、奈月の幼なじみで主人公と同じく辛い幼少期を過ごした由宇の三人は、秋級の地で奈月たちの「離婚式」を行います。指輪を並べ、一人ひとりが自分の好きなように生きていく、ことをここで高らかに宣言します。この儀式の後、小説の毛色が一気に変わります。

 奈月ら三人はアリストテレスの言うところの「ポリス的動物」である人間を捨て、野生動物のような共同生活を送ることになります。服は捨て、盗みを働き、人を殺し、とうとう人肉食まで…というところまではギリギリいかなかったのは、奈月、もとい作者の良心が働いたのだと思っています。

 地球星人の実態を描いているのかもしれませんが、『蝿の王』や、残虐事件の詳細を事細かに書いたウィキペディアの記事、その他ネットにひっそり置かれているスプラッター小説にあるような、いわゆる「自然状態に置かれた人間の恐ろしさ」を思わせるものでした。いわゆるリアリズムに沿った作品でこういう展開を見ることになるというのは、驚きでしたね・・・

 興味深かったのは、由宇くんの変わり身の早さですね。奈月と智臣を「人間」サイドにとどめる最後の砦であった由宇くんが陥落して人間であることをやめるまで、小説にしておよそ数ページ、時間にして一日経たないくらい。人間というのはほんの一ひねりで人間であることをやめるんだなあ、と人間という生き物の恐ろしさを感じたし、それを描く村田さんという人の怖さを垣間見た気がしました。

 前半部分では読み手にある程度歩調を合わせてくれていた印象でしたが、クライマックス近くになって、突然読者を振り捨てる勢いでドワーッとラストまで駆けていってしまう感じ、個人的には新鮮で面白かったし、「やっぱりただものではなかった・・・」「この作品を読んでよかった」と思いました笑。かなり読み手を選ぶと思うので、ファンは減ったかも知れませんが・・・

 普通の人なら多分「多少変なところがあっても何だかんだ生きていけるよね」みたいな丸い感じで終わらせるか、結局社会のルールに従っていく主人公たちを見送る形で終えるのかもしれませんが、そのあたりで妥協しなかったのがこの作品の凄いところだと思います。ヒッピーも青ざめるような奔放生活を送って人間ですらなくなり、第三人者に見つかった際には嘔吐さえされる。それでも作者はこれが良いとも悪いとも言わない、その毅然とした態度に救われる人もいるのではないでしょうか。

 個人的に気になった点としては、この小説が、むしろあまりに「読みやすすぎるかなあ」と思ったことですね・・・。文体そのものや、展開の仕方は整備されているのですが、こういったクライマックスが待っているのなら、もう少し作品自体が読みにくくい方がすんなり入っていけたかもしれません。

 やっぱり整備されたオンロードよりも泥まみれのオフロードの方が、スリリングな期待に満ちている感じがする。それだけのことかもしれませんが・・・。レーモン・ルーセルという人の作品に『アフリカの印象』という小説があり、とりあえずとんでもないことが起きているらしいということは分かるものの、描写に何かしら意図的な技巧が凝らされているのか、あるいはアフリカで見たものがそれほど名状しがたいものだったのか、「うわぁなんだこれ」という印象だけが残る感じ、そういうものをどこか私自身が求めてしまっていたのかもしれません。

 とはいえ、少なくともこの作品を世に出したことで、村田さんは恐らく「ただものではない」作品を期待されるようになったと思うし、今後どのような形でそれに応えていくのか、次の作品がとても楽しみになりました。あとは、「ちょっと変わった人」が世の中で頑張って生きていくのをただただ淡々と描く、そんな村田さんの作品もあるのではないかと思うので(それが『コンビニ人間』なのかもしれませんが)、そういう作品を探してみたいな、とも思いました。

 この作品についてラジオで言及してくれた川村(ひいてはその川村に『地球星人』を紹介した藤代)に感謝しています。そして、ここまで読んでくださった方、お疲れ様でした。ありがとうございます。